生命保険の魔法の力〜奇跡の生命保険会社が誕生するまで

日本における生命保険業界で、同業他社から圧倒的な尊敬と称賛を送られる保険会社があります。

アメリカ資本のプルデンシャル・ファイナンシャルの日本法人プルデンシャル生命です。

数ある生命保険会社の中でこの会社と、この会社に所属する保険募集人ライフプランナーは

業界トップクラス、質の高いコンサルティングと保険提案をすることで有名です。

 

今回取り上げるテーマは『生命保険の魔法の力』

日本におけるプルデンシャル生命の誕生とその根本にある創業の志についてのコラムです。

 

米国初の労働者保険を販売開始したプルデンシャル・フレンド・ソサエティー

 

アメリカが誕生して間もない頃、ヨーロッパからの移民が大量に押し寄せた新大陸では経済恐慌の発生に端を発して、

労働者がわずかな給与をもらうために劣悪な環境で働いていました。

家族の誰かが亡くなると葬儀を上げることもできず、路地裏に遺体を置いて帰る人々が増えていた時代だったそうです。

それを見た創業者のジョン・F・ドライデンは1875年(明治8年)にニュージャージー州(ニューヨーク西南部に隣接する州。東京における神奈川のような場所)に

プルデンシャル・フレンド・ソサエティー(プルデンシャル友愛会)を設立します。

創業者であるドライデンの考えていたことは社会のニーズである英国で普及の始まっていた労働者保険の、米国での普及と浸透でした。

当時、アメリカでは富裕層のための一時払や年払のような高額な生命保険しか販売されていませんでした。

ドライデンはこれを労働者の給与サイクルと同じ週払とし、保険料をわずか3セントとしました。

1880年代にコカ・コーラが誕生しますが、その時のコーラが1杯5セントという時代の少し前。

 

現在の価値でいえばジュース一本分ほどの保険料で自分に万が一の事が起きた際に、

葬儀費用と家族の当面の生活資金が確保できるこの簡易保険は労働者に爆発的にヒットしました。

また家庭を一軒一軒訪問し、生命保険の普及に尽力する保険募集人には保険の契約だけでなく、集金の役割も同時に担っていました。

銀行振替もクレジットカードもない時代、給与を封筒に入れて支払う経理の人の隣で、保険料の集金をする人をつけていたといわれています。

社会からの信頼によってプルデンシャル・フレンドリー・ソサエティーはその後の紆余曲折を経て、最初の自社ビルの建設にこぎつけます。

 

ドライデンは自社ビル開設の式典の場で次のような言葉を遺しています。

「このビルも、素晴らしい調度品も、ここにいる全ての人がやがて砂塵と化すだろう。

しかし社会の絆である”人間愛・家族愛”は不朽の原理である」

ドライデンがプルデンシャル・フレンド・ソサエティーで実現したかったことは”人間愛・家族愛”という崇高な理念でした。

その後、アメリカでは数々の戦争や混乱がありましたがプルデンシャルは大きく成長し、

プルデンシャル・ファイナンシャルという米国生命保険業界で第一位、1970年代に世界一の生命保険会社として君臨しました。

 

日本人初の米国アクチュアリー合格者との邂逅

 

1962年、まだ戦争が終わった直後の海軍の町、佐世保には在留米国軍人が大勢いて、

そこの牧師に英語を習ったある日本人の青年は牧師の推薦で米国の大学への留学の機会を得ます。

当時の海外渡航には莫大な費用がかかり、彼の父は片道切符で息子を送り出します。

”4年後の卒業までに帰国分の旅費を用意するから行ってこい”

父の温かい思いと、家族に見送られて青年は誰も知人のいないアメリカへ渡米します。

 

会話こそできるものの、大学の授業となるとまるでついていけなかった青年は教学部で中学生のスクールまで落とされてしまいます。

しかしそこで英語の能力を問われずに成績が出せる教科、数学と出逢うのでした。

復帰した大学生時代にも数学を用いる保険会社の統計にかかわるアルバイトを始めます。

やがて日本人で初となる米国アクチュアリー試験に合格します。

また英語ができないというハンディーを前に必死に学ぶ青年は、英語を教えてくれるアメリカ人女性と恋に落ちます。

大学の卒業も決まり、父との約束の帰国の日がやってきました。

父は約束を守り旅費を用意してくれ、自分の帰国を待っていました。

帰国の途に就いた青年は長崎の実家で英語で書かれた卒業証書を嬉しそうに近所中に見せびらかしに歩く父を前に

青年は彼女との別れ際に約束をしたことを父に切り出そうとしながらもなかなか言い出せません。

 

「何があっても君の所に戻ってくる」

 

時間ばかりが過ぎ、しかし言い出せない青年は別れ際に彼女から困ったときに開けるようにと手渡された手紙を開けます。

「父が私が生まれた時に入れてくれた生命保険を解約したお金です。必ず戻ってきて」

そこには彼女が託した思いがそこにはありました。

青年はそこに入れらていた小切手を手に再びアメリカに渡ります。

そして保険を解約した残りのお金で2つのことに使いました。

大学のチャペルで小さな結婚式を挙げ、二人は新居を借り夫婦になりました。

 

青年は保険会社に就職をしてアクチュアリーとして、そしてやがて独立をして経営コンサルタントとして生計を立てていきます。

そんな時、米国から日本へ進出しようという生命保険会社が現れます。

しかし青年が引き受けた大蔵省との交渉は、日本側の外資参入に対する抵抗によって長引き、保険会社は日本への進出をあきらめてしまいました。

日本へ一時帰国し、仕事をしていた青年は仕事を失ってしまいます。

 

ソニーグループに金融機関をー創業者の夢がかなう日

 

1946年、終戦の混乱期に日本では日本軍の技術研究員だった

井深大(右)と盛田昭夫(左)によって東京通信工業(現ソニー)が誕生しました。

写真は1961年、腕相撲に興じる二人。

 

世界初の小型トランジスターラジオを皮切りに、テレビ、そしてウォークマンと数々のヒット商品を

生み出すソニーでは盛田昭夫がたびたびアメリカでの販路を拡大するために渡米をしていました。

シカゴの湖のほとりを盛田昭夫と現地のエージェントが散歩をしているとき、

遠目にも巨大だと分かる高層ビルを発見します。

「すごい高層ビルだな!あれは何の会社なんだ?」

「あれはこの辺りで一番大きい保険会社のビルですよ。」

「いつかソニーもあんな大きなビルを持ちたいものだな」

 

1978年、盛田昭夫は友人とも呼べる間柄のアメリカ人と会っていました。

彼はアメリカ最大の保険会社で働いていました。

「日本に参入しようと思ってもう何社も交渉に行っているんだが、いつまで経っても返事が来ないんだ。

皆、『考えます』と言っている。一体、日本人の経営者はいつまで待てば結論を出してくれるんだ?

大蔵省は単独での参入は認めないと言って譲らないんだ。」

「ミスター、それは実に日本人的なニュアンスですよ。彼らは『ノー』と言っているんです」

「なんだって!?それじゃあどこの保険会社もやらないというのか!?」

 

盛田昭夫の頭の中にある考えが浮かびます。

保険会社も金融機関だな、大きな会社のバックには必ず資金を融資してくれる大きな金融機関がある。

これはもしかすると…

 

友人がガックリと肩を落とし、帰ろうとする時、エレベーターホールで盛田昭夫は友人に手を差し出します。

友人は別れの握手だと思って彼の手を握ると盛田昭夫は日本語でこう言いました。

通訳が驚き、翻訳するのをためらっている間にエレベーターがやってきました。

友人が不思議に思いながらエレベーターに乗ってしまい、通訳に尋ねます。

「アキオ・モリタはなんて言っていたんだ?」

『私たちと一緒にやりましょう…と』

日本と米国、両方の金融事情に精通していて大蔵省との交渉もできる人物

 

帰国の準備を始めていた青年のところに一本の仕事の依頼の電話が入ります。

電話はアメリカの保険会社の日本進出について大蔵省と交渉をする仕事をして欲しいというものでした。

「その話はもうなくなったんです、大蔵省は単独参入は認めてくれないんですよ」

『いえ、別な会社が大蔵省との交渉にあなたを是非雇いたいと言っているんです。

日本とアメリカの企業同士の合弁会社を作って、参入をしたいという会社があるんです』

「そんな会社が?何処と何処の会社ですか?」

3年後、大蔵省の認可を得て日本に新しい生命保険会社が誕生しました。

 

ソニー・プルデンシャル生命

 

大蔵省との交渉、そしてソニー・プルデンシャル生命における副社長としてかつての青年男性(後列右から二番目)が就任します。

坂口陽史(さかぐちきよふみ)、当時37歳。

ソニー・プルデンシャル生命は日本では生命保険は女性が販売するものというイメージを払しょくし、

最終学歴が大学以上でかつ生命保険業界未経験者、各業界からの優績セールスマンで30歳以上、

既婚者で子どもがいる男性に限りヘッドハンティングによる転職を原則として

少数精鋭で日本の保険業界に挑戦をしました。

彼らには生命保険の基本とプルデンシャル・ファイナンシャルのノウハウを提供し、

生命保険の原理・原則を叩き込み、営業を開始します。

 

1981年営業開始「きょうから生命保険が変わる。ライフプランナーが変える。」

ソニー・プルデンシャル生命は社長・役員を含めてたわずか52名、

保険募集はそれよりも数の少ないライフプランナーたちの使命感と生命保険業界を変えるという志、

そしてそれを支える家族によって成長を遂げていきます。

 

1986年、大蔵省が外資による単独参入を解禁する事を契機としてソニーとプルデンシャルは合弁を解消。

元のソニー・プルデンシャル生命はプルデンシャル側の子会社プルコ・インクに株式を取得させ、

1987年9月に「ソニー・プルコ生命」と改め、徐々にソニー側へ株式の移譲を行いました。

1991年に社名を現在の「ソニー生命」としました。

 

また改めて単独参入へ取り掛かったのは副社長を務めていた坂口陽史をはじめとしたごく少数名。

1988年に「プルデンシャル生命」として営業開始。

最初で最期の広告として各新聞社に出したのが

「エンパイア・ステートビルの所有者をご存知ですか?

世界最大の保険会社プルデンシャル、本日営業開始します」

日本人のアメリカへの強烈な憧れは当時のクイズ番組「アメリカ横断ウルトラクイズ」など改めて説明するまでもないでしょう。

アメリカの大都市ニューヨークの摩天楼を象徴する建物の一つである超高層ビルの当時オーナーだったプルデンシャル・ファイナンシャルは日本における戦略であったライフプランナーモデルを、その後、1990年に台湾・イタリア、1991年に韓国、1998年にブラジル、1999年にアルゼンチン、2000年にポーランド、2006年にメキシコで業務を開始しました。インドとマレーシアでは生命保険の合弁会社を立ち上げ、それぞれ2008年、2014年に活動を始めました。

数ある生命保険会社の中でプルデンシャル生命が別格とされる理由は様々ありますが、

その根底にあるのは創業者ジョン・F・ドライデンが掲げ、

坂口陽史によって日本へ聖火のごとく常に引き継がれてきた『人間愛・家族愛』の不朽の原理を彼らが今も強く信じているからでしょう。

日本における創業者、坂口陽史はこの事を自身の言葉で『Magic of Life Insurance(生命保険の魔法の力)』と呼びました。

またこの奇跡の生命保険会社の歴史はまだまだ序章に過ぎません。

今回は長くなりすぎましたのでいつかまた続きを書く機会を待ちたいと思います。

 

関連記事

  1. 障害者手帳と障害年金3

  2. FPが選ぶ特定疾病保険を勝手にランキング2017

  3. なんちゃってインデックスに気をつけろ!つみたてNISA(日経平均)にはまともなファンドが殆どなかった件について

  4. つみたてNISA対象インデックス日本株式で唯一まともな指標JPX日経400

  5. ソニー生命のLB(リビング・ベネフィット)と生活保障特則14付家族収入保険

  6. つみたてNISAが投資家から非難される様々なデメリット

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

CAPTCHA