失われた30年、昭和から平成への構造転換について振り返る

平成も残すところ5ヶ月あまり、31年続いた一時代は我々が生活して生きた時代です。

様々なところでこの平成という時代を振り返る機会がありますが、私はこの30年という時代は日本でサラリーマンとして働く多くの人々においては「失われた30年」だったと考えています。

今回は昭和から平成という時代を振り返り、社会と経済、投資の世界がどのように変化してきたのかを確認したいと思います。

平成を振り返るのに昭和を語らずして語れない

当時の内閣官房長官だった故小渕恵三(後の総理大臣)は1989年1月7日明け方の昭和天皇崩御の報を受け、閣議決定された年号を発表しました。

「新しい元号は『平成』であります。」

『平成』は年号法による最初の年号改訂であり、新年号は翌日から適用となることから1989年1月7日に昭和という時代が幕を下ろしました。

長すぎた昭和という時代は満州事変(1931年)、日中戦争(1937年)、太平洋戦争(1941年)という激動の時代を経て終戦復興、高度経済成長、バブル経済を経験しました。

焼け野原だった国土は道路が整備されて、衣食住の確保がされました。

昭和20年(1945年)3月の東京大空襲では2時間の空襲によって10万人の死者、そのうち38%は未成年が犠牲となったとの記録もあり、一般市民が住む街への無差別な空襲の爪痕は広島・長崎の原爆投下や各地の被害と合わせて戦後憲法の「軍隊を持たない」に今も息づいています。

復興、そしてアメリカに次ぐ経済大国にのし上がった原動力は日本人が終戦時に明治時代初期の2倍以上の労働人口として生き残っていたことが不幸中の幸いとなった事もあります。

また戦地から帰ってきた多くの人々が結婚をして家庭を持ち、生まれた団塊の世代やベビーブーム世代という後の日本を支える労働力となりました。

潤沢な労働力と勤勉な国民性、そして被害を受けたとは言え元々直前まで戦争をしていた日本の各地では戦争のための武器・弾薬を製造する工場や技術が残っていました。

太平洋戦争終戦と同時に建国を宣言した朝鮮民主主義人民共和国(北軍)は、1948年に建国された大韓民国へ1950年に中国・ソ連の同意と支援を受けて侵攻します。米ソ冷戦の代理戦争の始まりでした。

大韓民国はアメリカなどの支援する国であり、そこに海を隔てて接する日本は国際連合軍にとっての極東軍事拠点でした。

弾薬や大砲などの武器や補給路としての役割を果たした日本は復興の足がかりを隣国の代理戦争によって得ます。

北軍の侵攻によってソウルは陥落、朝鮮半島の東端の釜山一帯だけまで追い込まれますが、米英などの国際連合軍による介入で奪還。

その後、押し返して平壌を陥落。その後もあと一歩の所まで追い詰めては巻き返されてを繰り返し、1953年7月に板門店での休戦協定に至ります。

軍事産業から民間製造業への転身、日本の製造業の躍進

1945年の終戦によって戦時国債は紙切れとなり、円は新円(現在の円)に切り替えられました。

戦争が終わったのに再び配給に並ばなければ食べ物も買えない時代が戦後初期にはありました。

日本はその後、3年7ヶ月で物価は8倍になる強烈なインフレーションを体験します。

現在で言えば缶コーヒー1本が1,000円になる感覚です。

生活をしていくのもやっとの時代、朝鮮戦争特需によって軍事産業が盛んになり、戦争が終わると生産を民間の製造業へ舵を切っていきます。

戦中に機織りのメーカーとしにて創業した株式会社豊田自動織機は、自動車メーカーへ事業を拡大してその後、日本一の時価総額を誇るトヨタ自動車へ変身を遂げた例などはその最たる事例でしょうし、坂本龍馬から海援隊を引き継いだ岩崎弥太郎が設立した三菱財閥は日本海軍などの軍艦から国鉄の鉄道などのインフラに強みを持つ企業でした。

カメラの世界的メーカーニコンは日本海軍の光学機器メーカーとして戦後を迎えており、その技術を活かして国産カメラの製造へ、自動車メーカーSUBARUは零戦を生産していた系譜(中島飛行機)を前身としています。

日本の経済成長を支えた戦中からの貯蓄推奨令と金融機関による国債エコサイクル

日本が戦争の痛手から立ち直りきる際に社会を支える仕組みとしてその存在感を発揮したのが金融機関でした。

「貯金は美徳」という戦中から引き続くプロパガンダ(欲しがりません、勝つまではという思想)も手伝っては国は預貯金を勧めました。

銀行や郵便局などに預貯金で集まったお金を、銀行は融資や国債を買うための資金として活用しました。

国債を発行することで政府は得た資金を発電所やダム、高速道路、国道、新幹線、鉄道などを全国へ整備するための資金としました。

国債は単に発行すれば良い訳ではなく、買ってくれる人が必要です。預貯金が大好きな国民性によって金融機関に大量に集まってくる現金を、銀行は国債の購入に充て、インフラが整備されていけば経済活動がより活発になる。

理想的なエコサイクルによって日本は世界でも類を見ない戦後復興を遂げていきます。

郵便局では貯金と同時に簡易保険(かんぽ)が勧められ、また郵政省が集めた貯金と保険料で全国各地にかんぽの宿を展開しました。

後の郵政民営化で多くが廃業してしまったかんぽの宿、昭和生まれの方の多くは利用したことがあるのではないでしょうか。

また預貯金の金利は国債利回りから算出されるために日本では長らく預貯金=お金を貯める、増やす仕組みとして定着してしまいました。

普通預金の金利も高い時代でしたが、「ゆうちょ」と呼ばれる郵便貯金の金利は全国津々浦々から資金を集めるためにその中でも特段高く設定されていました。

平成2年(1990年)の最長10年の定期預金金利は平均利回りは年率8.64%がピークだったそうです。

http://www.nikkei.co.jp/topic7/yuchyo/basi/kinri.html

10年で預けたお金が2倍近くになる状態を経験した日本人の中には今もこの時の美味しい思いを忘れられず、30年も冷え切った金利がいつかまた回復することを心の何処かで待っている人も少なくありません。

また生命保険会社も集まってくる膨大な保険料を国債の購入に充てます。国債の利息収入を保険料の積み増しに利用して、契約者にとっての保険料負担を減らし割安な保険料で契約が出来るという好循環でした。

国からすればこれら大量の国債を買って長く保有してくれる金融機関の中でも銀行よりも長期保有をしてくれる保険会社は大切な大口投資家(機関投資家)として重用され、生命保険料控除や受取時の様々な税制優遇措置が生命保険業界の口利きによって取られる事になります。

日本には明治中期から生命保険会社はありましたが、生命保険本来の保障機能は戦前も戦後の日本でもあまり根付かず、「保険は貯蓄」として超長期の運用を行う終身保険や養老保険を販売し、高い予定利率を約束する金融商品として現在まで歪んだまま定着しています。

(貯蓄性保険が悪い訳ではありませんが)

銀行、生命保険…その他にも様々な税制優遇(財形貯蓄など)も整備され、日本は空前の経済エコサイクルの中で「今日よりも明日はもっと豊かになる」と誰もが信じることのできる社会を作ってきました。

大変な戦争という時代を生きてきた曽祖父や祖父母、父母世代への努力と苦労に対して我々は日頃から感謝をしなくてはなりません。

日米貿易摩擦による為替相場の見直し

産業の活性化と経済水準の向上によって1970年代に入る頃からアメリカは日本の急激な経済成長を危惧するようになります。

為替が1ドル360円の固定相場だったこの時代、日米の経済水準、物価水準がほぼ同程度とすれば自動車を例に出すと日本のトヨタはカローラを150万円でアメリカに輸出販売する際に輸送コストを加味しなければかなり安く輸出することができます。

しかし逆にアメリカの自動車メーカーがアメリカで製造した車を日本に輸出しようとすれば、販売価格を日本円にした際に高くなりすぎてしまうという現象が起こります。

戦後間もない時代であれば二国間の経済格差は果てしなく大きかったので、それほどの問題とはなりませんでしたが経済格差が縮まりつつあった1960年代後半にはこの固定相場制はアメリカの製造業、特に輸出産業には大きなハンデとなり、次々と輸出してくる日本メーカーがアメリカ人のビジネスを脅かし始めました。

一方で多くの日本人はアメリカの自動車など手が出せなかったことになります。

これを是正するために為替を変動相場制に移行(1971年)します。

この時、アメリカはベトナム戦争の長期化によって借金漬けで財政破綻の危機を迎えていました。

金とドルの交換という通貨の担保を廃止という決断に踏み切ったニクソン・ショックによって世界の経済のルールは大きく変わりました。

そこに更にここに追い討ちをかけたのがオイルショックでした。

エネルギーの殆どを中東の石油に依存していた第二次大戦後の世界は、中東の石油が枯渇するかもしれないという事態に、ガソリン価格を始め様々なところで値上げ、品不足が発生しました。

ティッシュペーパー、トイレットペーパーさえ一人一個という制限がつけられて、買い漁る人々が続出しました。

燃費の良くて安くて、高品質な日本の自動車にアメリカの自動車産業は再び大打撃を受けます。

アメリカの自動車メーカーはリストラや雇用の調整を行い、仕事を奪われた人々は日本車への破壊行動で抗議します。

この不均衡を是正しようと、1981年に日本の自動車業界は輸出量の規制を始めます。

そして1985年(昭和60年)にニューヨークのプラザホテルで為替介入による円高が人為的に作られるようになりました。

一気に円高が進みますが、すると原材料を安く海外から仕入れて加工・製造をする日本の電機メーカーが台頭してきます。

安くて、品質も高いメイドインジャパンは世界の電機メーカーのシェアを次々に奪っていき貿易摩擦は昭和が終わるまで続きました。

Related posts

  1. 日本郵便がアフラック株式取得する裏側にある事情

  2. 米国FRBの強行利上げで市場暴落。iDeCo・変額保険契約者は大チャンス!2019年前半はNISAを使わない方が良いのでは?

  3. 法人契約のプラチナ系傷害定期保険にソニー生命参入、オリックス生命も撤回から一転参戦へ。

  4. 失われた時を求めて〜平成の30年はバブルのツケ払いに費やされた30年だったのか

  5. 亥年の相場は”固まる”?2019年はNISA・つみたてNISAをあえて避けるべきと考える理由

  1. No comments yet.

  1. No trackbacks yet.